人間関係はあらゆる人々とその感情によって形成される〜『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』

サリー・ルーニー著『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』(山崎まどか訳)を読みました。

カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ サリー・ルーニー(著/文) - 早川書房 | 版元ドットコム



 物語の語り手であるフランシスは21歳の学生で詩人、同性の元恋人であり親友のボビーと朗読のパフォーマンスを行っている。とあるイベントで二人の活動に惹かれたジャーナリスト・メリッサから「記事を書きたい」と言われ、家に招かれる。そこには夫で俳優のニックが居て、フランシスはその彼と恋に落ちるという物語である。これだけをみるとよくある男女の許されない恋みたいなロマンスのようだけれど、この作品の面白いところはそこにメリッサとボビーも加わり、4人それぞれの関係性が複雑に絡み合う点である。一筋縄ではいかないことに苦しみつつ、それ自体を楽しんでもいるという、正にギリギリのバランスで成立している作品で、人間の分かり合えない部分と分かり合えるかもしれない可能性を余すことなく描いているのが特徴だ。ただ私はロマンスにあまり興味がなくあくまでその過程が好きなので、この物語の主人公たちが交わす言葉とその葛藤が魅力的だと思った。

 フランシスとボビーの資本主義に対する怒りや世間で当たり前だとされている家父長制に基づいた「一夫一婦制」などに反対しながらも、実際の人間関係の構造それ自体にうまく対処できない様子が印象的である。
この「一夫一婦制」議論の中で、友人・カミールから「一人以上の人間を愛するのは不可能だと思う」「つまり、全身全霊で、本気で愛するっていう意味で」「子供に対する愛とは違うでしょう」と言われたボビーが

まあ、それは多様な文化に存在する、ある種のロマンティック・ラブの超歴史的な概念を信じるかによるね(P.301)

でも私たちはみんなくだらないものを信じたりするよね?(P.301)

と言い放ったのがとても心に響いてきて、ずっと読み返していた。私は恋愛的な意味での「かけがえのない人」に出会ったことがなく、むしろ出会いたいと思ったことがない。これからも一生ひとりでいる可能性が高いけれど、それを寂しいと思ったりもしない。でも見知らぬ愛を知りたいし理解したいという気持ちから、いろいろな物語を探しているんだと思う。そういった意味でも、私はロマンティック・ラブの歴史や概念に興味があるのだ。

あと主人公フランシスが抱えている金銭的な困窮や身体のコンプレックス、病気、両親との関係性について揺れ動く様子もリアルだった。
フランシスの父親に対する感情は私と似たところがあり、私自身の葛藤が綴られているような気がした。

私がまるで父のことを単なる他人のように話し、特別な恩恵を施してくれる支援者やちょっとした有名人のように扱わないのが母には気に入らないらしい。(P210〜211)

母は私が父を愛せないのを理解できなかった。愛さなくては駄目でしょうと十六歳の頃に言われた。自分の父親なんだから。
誰が愛さなくては駄目だなんて言ったの?私は聞いた。
そうね、私はあなたが自分の両親を愛する人間だと信じたいの。
自分が信じたいものを信じれば。(P211)

私は人に親切だろうか?はっきりと答えるのは難しい。もし自分の性格が、不親切だと判明したらどうしようか。この問題が気になるのは単に、私が女性で自分よりも他人を優先させるように求められていると感じているせいなのか? 「親切」というのはつまり、対立を前にした服従を表す別の言葉に過ぎないのでは?十代の時に、日記にこんな風に書いた。フェミニストとして、私には誰かを愛さない権利がある。(P211)

 またフランシスとボビーがチャットで「愛」や「感情」について語り合っていたのも、それを読み返して物思いに耽る場面もすごく良かった。曖昧なヒエラルキーの中で自分の立ち位置を確認し、周囲を観察する。人間関係は当事者だけではなく、あらゆる人々と感情によって形成される。私はここにいて、私はこれに怒っていて、私はこういうところに惹かれるのだと言葉にしていく。まさに「今」の小説だった。

ちなみにこの作品はドラマ化されるらしい。必ず見る。